二瓶弁護士に聞く――地方自治法改正案は、「政権の暴走への歯止め(牧原東京大学教授)」どころか、非常事態に国が地方自治体に対応を指示できるようにする改悪案!

 

地方自治法改悪について区政報告で取り上げて訴える吉田ゆみこ

非常事態に国が地方自治体に対応を指示できるようにする「地方自治法改正案」が瞬く間に衆議院を通過、参議院での審議か始まろうとしています。国と自治体の対等な関係を損なう危険性をはらむ今回の改正案に、吉田ゆみこと品川・生活者ネットワークは、反対の立場から廃案を求めて活動してきました。この間の、牧原出・東大先端科学技術研究センター教授の、、、むしろ「非常時の政権の暴走に歯止めをかけるもの」との見解に接し、まったく賛同できないと考えていたところ、二瓶貴之弁護士から理論的反論の論稿を寄稿していただきました。感謝申し上げますとともに、このサイトで広く公開したいと思います。

また、牧原教授の見解に対しては、小熊英二さん(歴史社会学者)は、朝日新聞デジタル版(2024年5月18日投稿)で、概要、次のように批判しています。

●「法的根拠のない指示を二度としてはいけない」という問題意識から、法的根拠を与える法改正の必要性を訴えるというのは、素直に考えると矛盾しているのではないか。●第一に、現状でも「非常時」に法的根拠のない要請が出ているのであれば、個別に法的根拠を作っても、そうした要請の歯止めになると考えにくい。 ●第二に、そうした法改正が、地方自治法から行われるという理由がわからない。公立学校の休校は各教育委員会の責任で、自治体首長は(法的には)教育委員会への指揮命令の権限があるわけではない。つまり地方自治法とは関係がない。-∸そして、「今回の改正は、地方自治体に対する政権による指示の裁量範囲を増やすだけに終わるのではないかと懸念する」とし、最後は、「読んでも理解できないインタビューである。」で締めくくっています。

牧原教授の見解は、小熊英二さんが指摘するように、その見解の根拠が理解できないものであるとともに、二瓶弁護士が指摘するように、法的解釈として成り立たないものです。また中央省庁の権限を縮小することは非常に困難であり、事後に個別法に落とし込めばよいという提案も現実的とは言いがたいものです。牧原教授の見解は、国に自治体に対する幅広い指示権限を与えることによって、地方自治が危殆に瀕することになる法改正案を無条件に肯定するものと言わざるを得ません。

(吉田ゆみこ)

 

地方自治法改正案は「政権の暴走への歯止め」との牧原出教授の見解の問題点 弁護士 二瓶貴之(福島県弁護士会所属)

 1 はじめに

 本稿は、本国会(第213通常国会)に内閣が提出した、地方自治法の一部を改正する法律案のうち、いわゆる「国の補充的な指示権」等を設ける部分について、第33次地制調委員であった牧原出教授の見解が法的にまったく成り立たないことを解説し、全面的に批判するものである。

2 牧原教授の見解の問題点

(1) この地方自治法改正案に関して、朝日新聞・耕論欄(2024(令和6)年5月18日付け)で、牧原出・東大先端科学技術研究センター教授は、指示には法的根拠が必要であるとし、「今回の地方自治法改正案の指示権は、非常時の政権に歯止めをかける規定です。」と、肯定的見解を表明している。以下、牧原教授が法案に対する肯定的考えの根拠及びその問題点を説明する。下記の通り、牧原教授の説明に即した条文案となっているようには思われず、牧原教授の肯定的な見方に反して、国の地方に対する権限行使の濫用の危険が高いと言わざるを得ない。

(2) 牧原教授は、「必要最低限」や「国民の生命等を保護する」といった要件があるから、これが国自身において「やり過ぎ」ではないか考える契機となり、歯止めとなる、という。しかし牧原氏が言う「必要最低限」と、改正案252条の26の5等にある「必要な限度」とは、法的には全く異なる基準である。改正案を正確に理解せずに、必要性を主張しているということから、改正案を肯定する根拠とはなり得ない。

 「必要最低限」は、同旨の「必要最小限度」との語で、現行の自治法に既に存在し、まさに国の地方公共団体に対する関与の基本原則を定める245条の3第1項が、国に対して「普通地方公共団体が、その事務の処理に関し、普通地方公共団体に対する国…の関与を受け、又は要することとする場合には、その目的を達成するために必要な最小限度のものとする…」ことを義務づけている。また、各大臣が法定受託事務の処理基準を定める場合の規律としても「その目的を達成するために必要な最小限度のものでなければならない」(245条の9第5項)と、関与等が目的の必要最小限度の達成手段として厳密に設定されている(narrowly-tailored)かが審査される。

 これに対し「必要な限度」は、「必要最低限」、「必要最小限度」よりもはるかに緩やかな基準で評価される。通常は、「必要な限度」の行為については、当該行為に出る必要性がなかったという場合のみが違法となり、必要性が認められれば、原則としてとして適法と評価され、最低限度に収まっているかという点は、厳密に審査されない。これでは国自身が「やり過ぎではないか」と考える契機にはならず、「必要性が全くないと評価されやしないか」を一応考慮する程度にとどまるである。通常は、国は、権限を行使するにあたっては、必要だという判断のもとで行うものであるから、この考慮の結果、権限行使を控えることはあり得ない。つまり、改正案は、各大臣の広範な権限行使を認めるものとなっている。

なお、改正法案では、この案252条の26の5第1項を含む14章は、先述の通り、関与形態を原則的に規律する現行11章(新12章)の特例であるから、245条の3第1項の「必要最小限度」は、14章の適用場面における法的な規律とはならない。

牧原教授が「必要な限度」と「必要最小限度(必要最低限)」の差を知らないはずはないと思われるが、このような取り違えを意図的に行った上で、楽観論を述べているのだとすれば、国民を欺くものであり、研究者としての基本的倫理観に反するものとも言える、罪深い行為である。そして、そのことによって、国民を誤認させ、国民の理解を著しく誤らせる可能性が高い。しかも掲載媒体は全国的な一般紙であり、その影響力を考えると、その弊害はあまりに大きい。

(3) より深刻なのは、「法的根拠のない指示は……してはいけない」「現行制度では、個別法の想定を超える事態が起きた時、国の指示に関する規定がない。」という命題から、牧原教授が導く帰結である。この問題意識から、本来、災害等の非常事態に対する法的な備えとは、何らかの事態が想定外の事態になることを極力防ぐため、災害等を常に最新の科学的知見に基づいて想定した上で、個別法に不断の見直しを加える、というものであるべきはずである。ところが、牧原教授は、事前の見直しを放棄して、現行法の想定を所与の前提とした上で、新たな法的根拠として「オールマイティ(どんな分野にも行使可能な万能な権限)」ともいうべきものを設けることで解決する、という意味を持つ本改正案を、肯定的に評価しているのである。牧原教授は、事後に検証し個別法の制定に繋げるべきであるとしているが、そのような万能の権限があるのに、それをわざわざ個別法の個別の関与の方法として限定的に規定するに刻むような行動を国(中央の府省庁)にはまったく十分に期待できず、極めて大きなエネルギーを要することは、それこそ、1999(平成11)年の地方分権一括法制定の際に痛いほど経験したはずである。

 「国は地方に対して(他の法律の定めがない場合でも)指示できる」という規定が一般法にあれば、それが法的根拠になると牧原教授は言う。、といえば、形式的には確かにそうである。しかし、前記の地方分権一括法施行(2000(平成12)年)後の地方自治における国地方関係の考え方のひとつに、国の地方公共団体に対する関与は、法定の方法によってのみ行いうる、という「関与法定主義」がある。ここには、一括法制定前の無限定な関与を改め、なるべく限定するものにすべしとの規範が内在しており、「法定」される内容とは、関与できる場合の要件及び関与の方法を、制限的・類型的に定めるものでなければならない。換言すれば、法律で関与の方法が定められていれば何でも、一般規定でも構わないということであれば、極論、「国は地方に何でもどんな方法でも口出しできる」という規定を自治法に設ければ、およそあらゆる関与がこの規定又は他の法律の規定いずれかに基づく、法的根拠を有するものになってしまう。(A∪¬A=U)、このような広範な国の権限行使関与を認める規定は、国の関与に「歯止め」を掛けるものではあり得ず、このような規定をいかに法律に設けたところで、もはや関与法定主義とは評価できない。仮にこのような規定が法律上設けられた場合、もはや憲法92条分権一括法以降の「地方自治の本旨」とは相容れないものとなりことから、憲法92条に反する違憲立法の疑いが大である。少なくとも、牧原教授がいうように「非常時の政権に歯止めをかける」のではなく、「非常時の政権に広い権限行使を正当化する根拠を与える」ものとなるに過ぎない。これは、

特に非常時には、政権は根拠のない政策を実施することで何らかの対処をしているとの姿を見せたがる傾向があり、暴走する危険性が高い(コロナ禍における「アベノマスク」、「休校要請」、「Go to トラベルへの執着」などはその典型的事例である)。無権限でなされた暴走行為は行為者の責任が問われるが、牧原教授の論に基づく白紙の権限を国に与えた結果暴走が起きた責任は、一体、誰が負うのであろうか行為者よりもその権限を与えた側の責任がまず問われることになるだろう。

また、想定外の事態が起きたときに国の指示が予定されているということであれば、地方公共団体は、その多くが国の指示を求め、あるいはそれまで待ちの姿勢を決め込む可能性も高くなりうるのであり、地方の自主性を大きく阻害する。何よりもその結果、現に発生した想定外の事態に対して、地方公共団体は住民の安全確保等のために迅速な対応が求められるところ、国が本規定に基づく指示権を行使してくる可能性を考えて、これと齟齬をきたす可能性のある初動対応を躊躇してしまい、結果、対応の迅速性を失わせるという致命的な弊害を惹起してしまう可能性も生じることになる。無論、その弊害が生じた結果、不利益を被るのは、国民であり、各地方の住民である。

 さらにこの前提には、「想定外の事態に対しても、国は正しい対応を指示し得る」という仮定がある。しかし、個別法で想定外であった事態が起きている状態なのであるから、国自身、対策についての知見を有していないかったということであり、そのような仮定は成立しない。このような事態の中では、国と各地方公共団体とは、事態に対する知見をどの程度有しているのかという意味では、地方公共団体の方が現場の情報を多く持っており、国よりも優位にある。したがって、発生している現実への対応は主に住民に直接接触する現場に存する地方公共団体が行うべきである。そして、このような対応が各地方で行われる中で、国はその情報の結節点となって、より良い成果が得られた地方の知見・情報等を集積し、現場で頑張っている地方公共団体に情報提供するなり、を財政支援することや他の地方公共団体に情報提供する等の役割を担うべきであり、地方に対して、現場の状況に即したものとは必ずしも言い難い指示権を行使することが役割ではない。

 3 国の指示権をあまねく「補充」するための改正?

 ところで総務省は、法案資料において、この指示権を「補充的な指示権」と呼称している。改正案には「補充的」という用語が使われていないため、何が「補充的」なのか、意味が必ずしも分からないが、「補充的」を、当該指示権が、他に問題解決の手段がないことから、やむを得ず地方公共団体に行い得るという意味での「補充的」と理解するのが一般的と考えられるがところ、改正案では、前記の通り、国の関与は(最小限ではなく)必要な限度で行いうるとされる等、少しもそのような抑制的なものとはなっていない。この点で、総務省が、改正案にはない「補充的」という用語を使って、国民にあたかも指示権が「限定的」であるかのように誤認させることはものであり、法案の中身を正確に伝えるべき政府の公平性・中立性に反する行為と言わざるを得ない。

 法案では、他の法律の規定に基づいて指示できる場合を除く、という制限もあるが、これは法条競合を避けるための技術的なものに過ぎない。換言すれば、本条文案を設けることは、地方の事務全体(U)のうち、他の法律に既に規定があるもの(A)に対する、補集合(¬A)の領域にも国の指示権を設けるものであり、本条文案はそのような機能を持つ。「補充的」とは、このような意味に過ぎないのものである、と言える。つまり、本改正によって実現されるのは、国の指示権の、地方の事務全体に対する汎用化(A∪¬A=U)である。

そしてしかし、このような無限定の関与規定は、1999年分権一括法以降の国地方関係の考え方とは相容れず、「地方自治の本旨」に反する違憲の疑いの高いものである。抑制的な関与との誤解を与える「補充的な指示権」との呼称は使うべきでない。総務省において、やむを得ない場合にのみ行い得るかのように受け取られるような誤導を意図してあえて使っていると言わざるを得ず、悪質である。

 20世紀末~今世紀初頭の地方分権改革を理論的に、あるいは推進委メンバーとしてリードした行政学者である、西尾勝氏・大森彌氏・新藤宗幸氏ほかの先生方が、一昨年から昨年にかけて相次いで世を去った。その直後のこのタイミングで、「西尾先生はもういないじゃない」などと言うかのように、改正案このような地方分権に逆行する改正案が提出されたのは偶然ではない、というのは過言であろうか。当時、一行政学徒としてリアルタイムで分権改革を見ていた者として、暗澹たる思いを抱かざるを得ない。