「きばるの甘夏でランチ」果実を通して、水俣病被害者とつながるということ
「きばるの甘夏でランチ」果実を通して、水俣病被害者とつながるということ
生活クラブのまちが主催する「きばるの甘夏でランチ」に参加した。きばるの甘夏は毎年食べているが、なかなか手をかけて料理をするところまでいかず、そのまま食べている私…。何か料理のヒントがもらえるかも、と思って参加した。
きばるの甘夏は、私にとって思い入れが深い材の一つだ。
数年前、明治大学を会場にして開催された「水俣展」を見に行った。水俣のことはそれなりに知識として知っていたつもりでいたが、展示の一枚一枚に圧倒され、自分の[知識]の浅薄さを恥じた。
まだ、3.11の福島原発事故の前だったが、「原発と構図がそっくりだ…」と戦慄が走ったのを覚えている。時の政府は、国策のためには人の命に係わることでも平気で嘘をつき、力を持った大企業の方を守り、責任を他に押し付けようとする。御用学者がそれを裏付ける学説を唱える。
いよいよ自分たちの非を認めざるを得なくなった後も、言を左右にしてなかなか謝罪も、保障もしない。そして保障の差が基になって、地域の人たちの間に対立が生まれ、コミュニティが分断されていく…。
そんな状況の中で、海での生活の糧を失った漁師たちが、自ら運命を切り開くために陸に上がり、甘夏の生産を始めた。最初は農薬も結構使っていたと聞くが、やがて「チッソの被害者である自分たちが加害者になっていいのか?」という議論が起こり、なるべく農薬を使わない果樹栽培に切り替えていったという。
私が生活クラブ(生協)に加入して、甘夏を食べ始めたころは、もうそこそこおいしくなっていたように思うが、きばるの甘夏を消費材として取り扱い始めたころは本当にすっぱかったと聞く。それを消費者が運動として、頭で食べて生産を支えつづけた。
想えば、私にとって、「運動として」「頭で食べ」た最初の経験がきばるの甘夏だった。
今では本当においしくなった甘夏…。水俣のことを思いながら、みんなで手分けして作った料理をおいしくいただき、一緒に参加した皆さんと楽しくおしゃべりをした。運動を継続させるためには頭で食べるばかりでは難しい。参加する人を増やし、みんなで楽しく、おいしく食べればいいのだが、でも水俣の厳しい現実も伝え、学びあう機会も持ちたいと思った。
講習で教えてもらったママレードの作り方は、すごく手軽で「目からウロコ」の方法だった。「これなら私でも作れる!」そう思って申込用紙の甘夏の欄に「1」を記入した。<よしだ・ゆみこ>