福島・岩手スタディツァーに参加しました。ご報告第一弾!
8月25日から27日にかけて企画された東京・生活者ネットワークのスタディー・ツァーに参加した。本日はそのご報告第一弾をお届けしたい。
■福島有機農業の今~NPO法人福島県有機農業ネットワーク前理事長のお話し「都市と農村の共生の時代へ―原発事故から5年」
参加者13人を乗せたバスは新宿駅西口を出発して一路福島県の東和へ。あぶくま高原遊雲の里ファームの農家民宿「遊雲の里(ゆうのさと))に到着。最初の学習の講師はNPO法人福島県有機農業ネットワークの前理事長で「遊雲の里」を経営する菅野正寿さんだ。
原発事故以降、改めて有機農業の力を確信し、また昭和の大合併が結局は更なる過疎と集中を生むだけだったことを教訓として、自分たちの地域で自らネットワークを作って仕事を起し、雇用を生み地域をつくっていこうという姿勢に感銘を受けた。
NPOとして道の駅を運営し、そこに放射能測定室も作って実際に計測しながら基準をクリアーしたものを販売する。直売所だけでなく加工室も併設して事業の可能性を広げる。30年前のコープ福島との提携がきっかけで有機農業に取り組み、完熟たい肥の研究から初めて地域循環センターにつながったこと、生協との連携で始めたからこそそこにつながる生産者の食品残渣が使えて、結局それが地域の食品残渣を減らし、食の循環につながったこと。新規就農者の受け入れ窓口にもなっているが、優良な堆肥の提供が就農者への支援になっていること、などなど…。
菅野さんのお話を伺って気付くのは、日本の政策は原発のみならず、様々な資源(食料・労働力・エネルギー)を東北地方に依存しておきながら、不都合が起きると東北を切り捨てる政策をとってきたということだ。だから菅野さんの活動やお話は震災や原発事故からは始まらないのだ。市町村合併に対抗する地域づくりがその原点だ。原発事故はその「不都合」の大きさが桁違いであり、したがってその後の「切り捨て策」の酷さも時にはメディアに取り上げられたりするわけだが、これまでも国の政策に対抗して地道に地域を作ってきた福島県有機農業ネットワークから見れば、これまでの国策と同様の方向ということなのだと思う。
菅野さんの口調は常に穏やかだ。原発事故後の厳しい現状も交えながら、でも復興にとどまらない、地域経済づくりのお話を一つ一つ丁寧にお話し下さった。しかし、そこには震災以前からの中央政府の「地方切り捨て」政策への静かだが深い憤りと、アンチテーゼとしての活動を地道に行っていることへの誇りが感じられ,一つ一つ頷きながら伺った。
■避難地域視察(川俣町山木屋地区) 菅野さんのお話の後、バスに乗って今度は避難解除準備地域の山木屋地区へ移動。山木屋小学校の近くでバスを降りた途端、参加者の一人が持っていた放射能測定器が警告音を轟かせた。指し示す数字は0.5μ㏜…。
一瞬のことであり、すぐに0.4μ㏜に下がり、少し移動したら0.1台に落ち着いたが、「避難解除準備」地域を実感する。避難解除時期は来年3月に伸びたという。人々の葛藤を思う。この小学校に何人戻ってくるのだろうか…。
■カミノ製作所社長 神野美和子さんのお話し「こだわり納豆の再開」
カミノ製作所はもともと自動車部品の製造を行っており、7年前に食品事業部を立ち上げて、納豆をつくるようになったという。震災の一か月後計画避難区域に指定されもともとの事業の工場建屋を探すのも大変な苦労があったようだ。食品事業は3年間休業せざるを得ず、再開の場所も福島で…とも思ったが、どうせなら夫の故郷の山木屋での再会を決意し、立派なクリーンルームを備えた工場を作った。まだ解除前だが12月21日に納豆の製造を再開し、これまでのお客さんなどに9日間で2,200個(4.400パック)を売り上げた。今までは帯広産大豆だけだったが、今後は県産大豆を使った納豆も作って販路を開拓したいと考えている。
山木屋に戻ってきたお年寄りの集うスペースも必要ということで、カラオケルームなども作って無料で提供したいと考えているという。
「おそらく3月には今度こそ避難解除されると思うが、帰ってくるのは20%くらいかな…」と神野社長。解除への期待と不安、そして地域のよりどころになっていこうとする決意を感じた。(よしだゆみこ)